2011年4月13日水曜日

ナベツネの例の顰蹙発言が話題に出た。
私は彼のような人は必要であると述べた。
ま、大勢いたら困るが
言わば必要悪なんではないかと。

彼に限らず色々失言しちゃう人がいるが
失言と指摘されるまで失言とは思ってなくて
自分では常識範囲だと思っていたに違いない。
その常識というのが世間と大きくずれてるわけだが
常識と認識させている環境があるわけで
失言と糾弾されるのはその環境下の他の多くの人達へのいい警鐘となるわけで。
「あ、こういうこと言うと怒られちゃうんだ」と気づかせてあげるのは大事である。
ひょっとしたら糾弾しながらも裏で冷や汗かいてる輩もいるやもしれん。

すぐ極論言っちゃう人も必要。
極論言われるとそこが振り幅の限界なのだとわかりやすくなる。
例えばコックリさんの十円玉が動く原理。
誰も動かしていないつもりなのに動きまわるコックリさんの十円玉は
誰かの無意識の僅かな動きでスイッチが入ってしまう集団催眠のようなものだという。

常にニュートラルに、なんてどっちつかずの中間論ばかりくりかえして
膠着状態になったりすると
このコックリさんの十円玉原理が働きかねないのである。
恐ろしいことにそこにひとり明確なビジョンを持ったものが存在すれば
もう赤子の手をひねるよりたやすいのである。
ひとり、もしくは少数の意思を総意としてしまうのは危険だ。
ファッショである。
そしてその意思が悪意に満ちていたとしてももう人々は判断できなくなっている。
コックリさんの呪いである。

そこに極論者の必要性がある。
コックリさんで言えばイラついて自分で動かしちゃう人である。
しかもイラついてるから強引にぐいっとやっちゃうんである。
○○君動かしちゃったから祟られるぞ、コックリさんお帰りください、となるわけである。
チョットずつ巧妙に動かそうと思ってたヤツには台無しである。
そして人々は我に返るのである。
メデタシメデタシ。


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